書評 「難関」に立つ中国経済
『月刊東方』
1990年x月号
著者はNHK解説委員、文化女子大学教授を兼ねる。最近、中国を延べ半年間にわたり旅行し、その見聞を記したのが本書である。ジャーナリストの中国報告は枚挙にいとまのないほどだが、本書もその一冊である。
九章から成る。そのタイトルはつぎの通りである。「人口大国の悩み」「低い教育水準と真剣な学生」「不足の社会」「貧しい農村と格差」「西側へ向く東北」「沿海地区発展戦略と日本」「全方位開放」「活況郷鎮企業」「インフレと暮らし」。
テーマの選び方、書かれた内容、いかにも常識的である。ところが、「結びに代えて」のなかで、著者は「なんと思い切ったことを書いたものか」と反省じみた弁を記しておら れる。しかし評者には、著者がどの記述についてそう感じておられるのか、さっぱり理解できなかった。著者の感性と評者のそれとの間にかなりのギャップがあるためらしい。
本書を一読して感じたことを率直に書いてみたい。著者はある会議で小平氏が「人口一人当たりのGNPを、当時〔一九八〇年〕の四倍の八〇〇ドル、人口を一二億人」の目標としたと語ったことを紹介している(本書二二頁)。この記述はいささかミスリーディングである。
というのは、小平が一九八〇年に語ったのは「一人当たり一〇〇〇ドル」であり、この時は「人口問題」には言及しなかった。というよりも人口は一〇億人と暗に想定されていた(「目前の形勢と任務」『小平文選』所収、二二三頁)。その後、一〇〇〇ドル目標論議が活発になる過程で、人口増加の要素が話題になった経緯がある。もし人口が一〇億人から一二億人に増えるとすれば、一〇〇〇ドルは達成困難だということで、その後八〇〇ドル〔一〇〇〇ドル×一〇億人=八〇〇ドル×一二億人〕に「下方修正」されたのである(「中国的特色をもつ社会主義を建設しよう」『建設有中国特色的社会主義 増訂本』五三頁)。著者が自らも出席されたこの会議の印象にこだわるあまり、関連文件の参照を怠っているのは片手落ちであろう。
「闇の子供」に対する公安当局の見解を紹介して言う。「これらの子供たちには罪はなく、いつまでも隠したままでもいられないので、戸籍に登記させる。地方の役所の、計画外の子供の届出を認めない“土政策”つまり土臭いやり方は取り消させる」(本書二八頁)。ここでいう「土政策」とは「土臭いやり方」であろうか。「土政策」の「土」とは「中央の政策」に対するもので、中央の政策に背いた地方独特のやり方の意であろう。かつて「土法」製鉄が行われたが、これは「洋法」(近代的製鉄法)に対するものであった。「土」の意味を明確にするためには、そのツイ概念を探すに如くはない。
中国で「没有」の洪水に悩まされた旅行者は少なくないが、これと並んで多いのが「坏了」だと著者は言う(六五頁)。この「坏了」に「ホワイラ」とルビを振って、「こわれた」の意、あるいは「悪い」という意味だと説明している(「坏」は七六頁、一一八頁にも出てくる)。この「坏」は簡体字だが、日本語の文脈では土ヘンに下を書いた「アクツ」に似ていて紛らわしい。簡体字表記に反対するいわれはないが、他方七二頁には「拉関係つまりコネである」と出てくる。もし「拉関係」と当用漢字で書くのならば、「坏了」ではなく、「壊了」と繁体字で書くべきであろう。もし敢えて簡体字を用いるのならば、「拉関係」も簡体字にすべきだろう。二一〇頁の「対聯」も同じ。要するに表記の不統一はよくないですね。
王小強、白南風『富饒的貧困』(四川人民出版社、一九八六年)は、評者もしばしば引用したことがある。この白南風氏との会見模様を紹介しつつ、彼は「この著書を私〔著者〕に贈ってくれ、引用もこころよく承知してくれた」と書いている(九七頁)。「内部発行」のような本ならいざ知らず、公開発行の本について二、三頁の引用をするのに「許可」を求め、「こころよく承知してくれた」と書くジャーナリスト精神とは一体何か。こういう感覚が私にはほとんど理解できない。
「ある中国人は、“今の中国人は限りなく資本主義に近い社会主義に向かっている”とのべている。その傾向は私営企業の発展によって、さらに加速されると私はみる」(一九八頁)。どこかで聞いたような表現ですが、全く同感ですね。
「中国の指導者は、最近の物価の上昇を“物価の高騰”と表現し、インフレとはいわない」「だが、中国の学者の間には、「中程度のインフレ」という者もでてきた」(二〇六頁)。ここで「最近」が八八年何月を指すかが気になる。著者は八八年八月二四日付『人民日報』社説を引用しているから、この時点までは著者の観察範囲に入っていることになる。もしそうなら、この記述はミスリーディングである。たとえば八月一六日、趙紫陽氏は共同通信社長一行と会見して「物価値上がり」(原文「物価上漲」)に触れて、「物価改革をインフレ〔原文「通貨膨張」〕克服と結合して行う」旨語っている(『人民日報』八月一八日付)。趙紫陽はここで「スパイラル・インフレ〔原文「輪番漲価」〕に陥ったのであろうか」と疑問の形ではあるが、「輪番漲価」という表現さえ用いている。つまり「中程度のインフレという者もでてきた」どころの話ではないのである。ちなみに学者レベルで言えば、劉国光の「インフレ〔原文「通貨膨張」〕問題を正視せよ」(『経済日報』一九八八年四月五日「理論探索」第九七期)あたりが早い時期のものであろう。
揚足とりみたいな指摘ばかりでいささか気がひけるが、もとより他意はない。